北辰一刀流兵法の歴史 (PDF)
1.江戸時代(1603-1868)における北辰一刀流
北辰一刀流兵法は日本の有名な古流武術の一つであり、江戸時代後期(1820年代初頭)に千葉周作平成政(1792-1855)によって創始された。その時代最強の剣士と言われ、「剣聖」と呼ばれた。周作の生涯は、今の世にも忘れられることなく伝え続けられている。
千葉周作平成政は、1792年に日本東北部の気仙沼市本郷(現宮城県気仙沼市の一部にあたる)で生まれた。周作は北辰夢想流の宗家であった千葉幸右衛門に師事した千葉忠左衛門成胤という武士の次男であった。忠左衛門は剣の才能に恵まれていたため、北辰夢想流の宗家であった千葉幸右衛門に師事し、その養子となり千葉家を継いだのである。
北辰夢想流は、北辰流第11代宗家が行った流派の改名により誕生した北辰流の一分派である。北辰流の起源は治承・寿永の乱(1180-1185)に遡る。幕府創設に功を成した当時の武将で、千葉家中興の祖といわれる常胤によって編み出された北辰流は、千葉家の後継者や家臣に対する武道教育のための物であった。
周作は、弟の千葉定吉平政道(1797-1879)と共に、幼児期より北辰夢想流に親しみ、実父の忠左衛門と祖父の幸右衛門から薫陶を受けたのち、北辰夢想流の免許皆伝を授けられた。
1809年に千葉家が松戸町(江戸付近)に移住した後、周作は浅利義信又七郎のもとで一刀流兵法を学び始めた。その後、浅利の師匠であった中西忠兵衛子正にも師事した。両者は一刀流兵法の免許皆伝であり、浅利派と中西派は共に一刀流の分派である。
一刀流兵法は、戦国時代(1467-1603)の伝説の剣客とまで謳われた伊東一刀斎景久によって、1580年代に創始された。後継者の神子上典膳忠明(のちに小野治郎右衛門忠明に改名)は徳川氏の武将及び旗本であった。徳川将軍に天下一と認められた神子上典膳は、徳川将軍家の剣術指南役を務めた。その影響で忠明の評判が広まり、一刀流は全国に普及した。免許を授けられ、道場を構える師範達が多くいたという。
指導された技を一度で覚え、瞬く間にその趣旨を極める天才的な剣の才能を、師に認められた周作は、暫くすると浅利義信(浅利派)より一刀流の免許皆伝を与えられた。その後、浅利の養女と結婚し、道場養子となった。周作は浅利周作成政に改名し、養父である義信と一緒に門下生を指導し、浅利道場を継ぐことになった。
ところが年月が経つにつれ、周作は浅利派と中西派の稽古法に疑問を持つようになった。軽い木刀と竹刀では、決闘を想定した真剣による応用が効かないとの結論に至ったのである。これを機に、周作は養父と折り合いが悪くなり、遂に浅利家と物別れになった。こうしてまた千葉周作成政に改名した。
その後、周作は弟の定吉と一緒に武者修行に臨んだ。定吉は幼い頃より兄の稽古相手であり、周作と同様、剣豪と称えられていた。幾多の道場を訪れた千葉兄弟は、全国にわたって試合に挑み、名を知られていない流派から、神道無念流、直心影流、馬庭念流、また様々な一刀流や新陰流系統に至るまで相手にし、当時最も盛んだった流派の剣客らを次々と倒したといわれている。
二つの流派を修め、武者修行で有意義な体験を積み重ねた周作が、1820年代に自らの流派を創始した。それが「北辰一刀流」である。千葉家に代々伝わる「北辰夢想流」と、浅利義信や中西忠兵衛に学んだ「一刀流」の融合による、新たな可能性に満ちた、流派の誕生であった。
北辰一刀流は、ある意味では一刀流の技を簡略化した流儀である。しかしながら、実践を常に想定していた一刀流の開祖伊東一刀斎の教えに立ち返り、真剣への応用が利く稽古に徹した教えは、画期的だったと言えよう。周作の教授法は合理的な要素が多く、稽古体系にも工夫がなされていた。他の流派では極めるのに10年かかるが、北辰一刀流では5年で完成してしまうと言われていた。中には、厳しい1年間の修行を経て、免許皆伝を授けられた門下生さえいた。
周作は1822年に日本橋品川町の近辺で玄武館という道場を創設した。弟の定吉は、玄武館から一丁しか離れていない屋敷に引っ越し、兄を補佐しながら道場を支えた。千葉兄弟が武者修行で得た評判や、手合わせを申し込むために玄武館に訪ねてきた剣客を次々倒したことで、玄武館の知名度はすぐさま広まり、門下生の数が一気に増えたという。その後、玄武館は神田お玉ヶ池に移転し、神道無念流の練兵館と鏡新明智流の士学館に並んで幕末江戸三代道場の一つと称されるようになった。
1839年、周作は水戸徳川家(徳川御三家の一つ)に謁見した。弟子の臼井新三郎(六郎とも言われる)とともに、常陸水戸藩の第9代藩主及び第15代(最後)将軍・徳川慶喜の実父に当たる徳川斉昭の前で北辰一刀流の技を披露した。演武に魅せられた斉昭は、水戸徳川家やその御家人の武術指導者として、周作を水戸藩剣術指南役に指名した。その後周作は水戸に移住し、徳川家の指導に取り組みながら、弘道館という水戸藩藩校においても北辰一刀流を教授した。1841年に徳川斉昭によって開館された弘道館は、明治維新から4年が経った1872年に閉館となった。
水戸への移住に伴い、周作は弟の定吉に玄武館を任せることにした。長男の千葉寄蘇太郎長胤(1825年生まれ)、次男の千葉栄次郎成之(1833年生まれ)、三男の千葉道三郎光胤(1835年生まれ)がまだ幼かったためである。定吉は、8年間(1839年〜1848年)にわたって宗家代理として玄武館を率い、道場自体や北辰一刀流の評判に大きく貢献した。尚、周作が留守の間、定吉は兄の子供達に北辰一刀流の技の一切を伝授したのみならず、彼らの日常生活から人格形成に至るまで、あらゆる面で影響を与えたと言われている。1848年、定吉が23歳の寄蘇太郎に免許皆伝を授けたのを機に、寄蘇太郎が玄武館を継ぐこととなり、実父周作に続いて第2代宗家を允可された。
定吉は玄武館の宗家代理を務める一方、日本橋堀留町にあった自宅にて、玄武館とはまた違う形で内弟子を取っていた。免許皆伝を伝授された長男の重太郎一胤(当時24歳)と一緒に、江戸桶町の旧狩野屋敷で開設した道場は、千葉道場と名付けられた。
当時、どこの道場でも武術の稽古をするのは武士階級のみであった。しかし、進歩的な考えの持ち主であった定吉は、当時では考えられなかった士農工商の分け隔てない道場を夢見て、上士、下士、農民、商人から女性、子供に至るまで誰でも歓迎した。定吉曰く、武術は生得権で定められたことではなく、自らの生まれつきの才能を育成しながら努力を活かすことによって、身分の上下を問わず身に付けられなければいけないことだという。
この革命的な概念は功を奏し、千葉道場の評判は高まり、瞬く間に門人が増えた。暫くすると旧狩野屋敷が手狭になったため、隣にあるすでに閉塾していた東条一堂塾を買い取り、千葉道場を拡充した。入門する人の中には、既に他流の免許皆伝を伝授された者もいた。その多くは他流試合を申し込むため千葉道場の門を叩き、定吉や長男の重太郎、二女のさな子や他の内弟子等の手によって敗北を喫してから入門することになった。千葉道場では腕の立つ剣士が次々と育成され、剣の才能を特に発揮できた者には免許皆伝を授けられた。かの坂本龍馬も長刀術の中目録を允可されている。そして1853年には玄武館を超えて幕末江戸三大道場の首位に輝いたという。
時折、お玉ケ池の玄武館は「大千葉」、桶町の千葉道場は「小千葉」と呼ばれているが、この通称は道場の大きさではなく、周作と定吉の年齢差に起因するものである。
北辰一刀流は「天下一」と謳われる程、玄武館と千葉道場は非常に成功していた。「天下一」という言葉を流派のモットーに、剣士たちは各地で行われた竹刀と木刀による他流試合で勝利の記録を残し続けた。勝利にこだわるあまり、当時禁じられていた真剣による決闘で相手を切った門下生もいたという。
1853年マシュー・カルブレイス・ペリー代将が江戸湾に来航し、開国への交渉を強制的に要求した。徳川幕府は混乱状態に陥った。多くの藩は、中国や他のアジア諸国の如く西洋の操り人形になることを恐れた。将軍家はもはや統治者には相応しくないと見なし、王政復古を唱える者が後を絶たなかった。周作を水戸藩の剣術指南役に指名した水戸藩主徳川斉昭は、倒幕運動の中心人物の一人であったが、1858年に大老となった開国派の井伊直弼と、のちに対立した。
同年、定吉が鳥取藩の江戸藩邸の検分役に就任した。その後、鳥取藩剣術指南役にも指名され、江戸藩邸で鳥取藩士に北辰一刀流を教授した。そこで、道場に不在となった定吉に代わり、長男の重太郎が第2代宗家として千葉道場を率いることになった。
同じ頃、寄蘇太郎と栄次郎は水戸藩の江戸藩邸で北辰一刀流を教え始め、水戸の弘道館へ出稽古に行くこともあった。
1855年に大都市江戸を襲った安政地震の被害は甚大で、千葉道場とその周辺は完全に破壊されてしまった。この年は、北辰一刀流の歴史の中で激動の一年であった。流派の創始者である千葉周作と、その長男の寄蘇太郎が逝去したのである。そのため玄武館は3代目となった千葉栄次郎が率いることになった。
安政地震が起きてからたった一年で、定吉と重太郎は千葉道場を再建し、更に拡大した。 門人は数千人を数え、千葉家の住居地に隣接した新しい千葉道場には、幾つかの稽古場以外に内弟子のための寮も設けられた。各藩の藩校を除き、民間道場としては当時の日本最大規模の道場であった。1860年には父親の定吉に続き、重太郎も鳥取藩の剣術指南役に指名された。
1853年のペリー来航による強制的な開国を境に、若き志士たちを中心とした討幕運動は大きく高まっていた。倒幕の風潮が激しくなる中、1860年に大老井伊直弼が暗殺される事件が起きた。弘道館、若しくは玄武館で北辰一刀流を学んだ水戸藩脱藩浪士17名と、薬丸自顕流の使い手であった薩摩藩士1名が彦根藩の行列を襲撃し、井伊直弼と多くの護衛の供侍たちを斬り倒した。暗殺は徳川政権の中心であった江戸城の桜田門外で起きたため、幕府に対する暴動はますます過激化していった。
それから2年後の1862年、玄武館第3代宗家の千葉栄次郎が早逝し、弟の道三郎が第4代宗家となった。玄武館道場は幾人かの門人が桜田門外の変に関わったことを証明されたため、一時閉鎖され、江戸町奉行の取調べを受けることになった。
一方、千葉道場では宗家号位を受け継ぐ息子がいなかったため、重太郎は高弟の千葉東一郎清光を養子に迎え、娘と結婚させることにした。
1867年、定吉と重太郎は幕府役人の暗殺に関わったとされ、自宅に監禁された。しかし、264年続いた徳川幕府が転覆して明治維新(1868)になった直後に赦免された。新政府によって解放された定吉と重太郎は、江戸から東京へと名が改まった江戸の千葉道場で稽古を再開した。
同じ頃、重太郎はもう一人の弟子千葉束(免許皆伝を授けられた者)を養子として迎え入れ、もう一人の娘と結婚させた。
2.明治時代(1868-1912)における北辰一刀流
徳川幕府の滅亡後に戊辰戦争(1868年〜1869年)が勃発し、新政府軍と旧幕府軍による激しい戦いが繰り広げられた。多くの北辰一刀流の剣士が、官軍側、賊軍側の両方に参戦して戦った。 官軍側として戦ったのは当時の四天王の一人、小林誠次郎定之であった。 彼は以前、千葉栄次郎と千葉道三郎に師事し、免許皆伝を伝授された者である。戊辰戦争中、幕末の四大人斬りの一人として人斬り半次郎の異名をとった中村半次郎の命令下に戦った。陸奥国(現在の福島県)で行われた会津戦争の参戦時には、多くの敵を斬り伏せたという。
五稜郭の戦いを経て戊辰戦争が終結すると、旧幕府軍は根底から崩壊し、明治政府が日本を統一するようになった。
それから2年後の1871年、千葉重太郎は鳥取藩より剣術指南役を指名された。重太郎は東一郎を千葉道場第3代宗家として允可し、道場を継がせてから東京を去った。しかし同年、明治政府による廃藩置県が行われ、武士を軸とする階級制度が廃止されたことにより、およそ200万人の武士が突然失業したのである。鳥取藩が廃止された重太郎も例にもれず、東京へ戻ることを余儀なくされた。
翌年、玄武館第4代宗家の道三郎が後継者を任命することなく逝去した。徐々に目が見えなくなりつつあった長男の勝太郎は、道場を受け継ぐことができなかった。玄武館は建物自体が劣化し建て替えの必要に迫られていたが、建て替え作業を行わずに、同年閉館されることとなった。
武士階級が廃止されて以降、武術への関心は低下し、多くの門人が流派から離れ始めていた。これを防ぐため、翌1873年、千葉周之介之胤(玄武館第3代宗家千葉栄次郎を父とし、父の弟子であった下江秀太郎に師事)は、千葉道場第3代宗家千葉東一郎と千葉さな子(千葉定吉の二女)と共に、千葉道場において千葉撃剣会を結成した。
千葉撃剣会により開催された撃剣興行は、竹刀や木刀を持って腕を試したい様々な流派の剣士にとって最高の環境であった。最初は選ばれた観客の前でのみ試合が行われたが、暫くすると誰でも観られるようになった。これを機に評判を取り戻した千葉道場は、再び門下生を集めることに成功した。千葉道場にて行われた撃剣会の試合の様子は、有名な浮世絵師であった月岡芳年が木版画に何枚も残している。
廃藩置県及び身分制度の廃止に伴う失業で、士族階級に属する多くの者は、不満を募らせていた。徳川幕府の転覆に大きく貢献した現在の熊本県、宮崎県、大分県、鹿児島県出身の士族らが薩摩に集結し、西郷隆盛を盟主にした武力反乱を起こした。1877年の西南戦争である。戦いは九州各地で繰り広げられた。
この反乱を鎮圧し、新しく構成された大日本帝国陸軍と海軍の戦闘力を実証するため、全国から選りすぐりの部隊が集められた。帝国軍の特殊部隊の一つである抜刀隊は、警視隊(警察官)の中から選抜され、白兵戦部隊として編成された。剣術に秀でた者から編成されたこの抜刀隊の任務は、西郷隆盛の鉄砲隊に向かって突撃し、その最前線に立つ兵達を斬り伏せることであった。この攻撃作戦を実施することによって、帝国軍は敵の激烈な銃撃を浴びることなく接近することができたのである。
抜刀隊隊員の一人に、戊辰戦争で多くの敵を斬り伏せたあの小林誠次郎がいた。政府軍の一員として西南戦争で奮戦した小林は、かつての指令官である中村半次郎に対して戦うこととなった。小林は晩年、「共に戦ったかつての同士を斬るのは耐え難い悲しみであったが、統一されたばかりの明治政府が秩序を取り戻すためには、あのような選択肢しか残されていなかったのだ」と言ったという。
明治政府に奉職した小林は警視庁を退職したのち、東京の自宅で至誠館道場を開き、北辰一刀流を指導するようになった。この時の弟子の一人に野田四郎という人物がいた。武術が忘れ去られていった大正、昭和という時代を生き抜くことになるこの人物が、北辰一刀流の全目録の保存に貢献した流派存続の重要人物になることなど、この時小林は知る由もなかったのである。
西南戦争が勃発して2年後の1879年、千葉道場を開いた千葉定吉は82歳で天寿を全うした。同年、家を継がずに実兄が逝去した千葉東一郎は、妻を連れて実家に戻った。東一郎が千葉家を去った後、千葉束が千葉道場の第4代宗家を継ぐこととなった。
時代の変遷により、明治時代の日本人の大半は武道に関心を持たなくなっていったため、その教えを受け継ぐ者もいなくなり、多くの流派は途絶えていった。当時の門人数には広すぎた千葉道場もまた厳しい状況に陥っていた。金銭的に道場を支えられなくなってきた束は、桶町から四ツ谷にある小さな施設内に、千葉道場を移転せざるを得なかった。
東京の本格的な都市計画が練られていく中、江戸時代の古い建物の多くが解体を迫られていた。その建物の一つは、1872年に閉鎖した神田お玉ヶ池の玄武館であった。1880年に、玄武館道場は道路建設工事に伴い取り壊された。
1881年に、束は翌年京都で設立された府立体育演武場で、養父の重太郎と共に撃剣及び剣術指南役として仕官することになったため千葉道場での稽古を中止した。
一方、周之介之胤は、東京で玄武館を再建するために支援者を集めていた。散々努力した挙句、翌々年に北辰一刀流の剣士であった山岡鉄舟と井上八郎(山岡の師匠)の金銭的且つ技術的な協力によって、神田錦町に玄武館を再興することに成功した。両者とも以前に免許皆伝を伝授され、幕末を駆けて激しく戦った剣客である。周之介によって玄武館にて行われた「おんな薙刀」の稽古に関する記事が、翌年の浅野新聞に掲載された。
それから1年後の1885年に、千葉道場第2代宗家を務めた千葉重太郎が61歳(当時の平均寿命)で天寿を全うした。同じ頃、京都から戻ってきた束は、千葉道場の第4代宗家として、再び東京で北辰一刀流を教授することとなった。
この頃になると、門下生を獲得して古流武術で生活費を賄うのは、非常に困難になっていた。多くの人にとって武術は、血で綴られた幕末や明治維新の嫌な思い出に過ぎなかった。当時の武術家は幕末に行われた暗殺や決闘、斬り込みなどに実際に関わったことのある者がほとんどで、彼らは国民の過半数から時代遅れという批判を受けていた。この状況下で、次世代に流派を受け継ぐための武術家に残された道は、軍隊や警察を指導すること、若しくは開催された撃剣試合に出ることしかなかった。しかし、多くの武術家は武術を必要としない職業に鞍替えしたため、途絶えてしまった流派が沢山あった。
1886年に千葉周之介は門下生の前で演説を行い、剣術への関心がますます薄れていくこの時代であっても、玄武館を維持するため稽古に励むように、と要請した。しかし門人の減少に歯止めをかけることはできず、1887年から1897年の間に、玄武館は閉鎖されることとなった。1822年に千葉周作成政が開いた北辰一刀流の一系統の終焉であった。
一方、千葉束は1896年から1897年の間に東京の千葉道場を閉めて台湾に居を移し、台湾基隆北門に「北辰館」という道場を作って北辰一刀流を教授し始めた。束の台湾移住は、1895年から日本の植民地になっていた台湾で、日本の伝統文化を指導できる人の移住を政府が促進していたことに起因する。その数年後、束の満州への赴任が決まると、北辰館は閉鎖された。
周之介は1899年より韓国の釜山で日本政府の仕事に就き、1911年に逝去した。それから半世紀あまり経った1942年、周之介の息子である千葉栄一郎によって「千葉周作遺稿」が出版された。序文には、北辰一刀流を学ばなかった自分がこの書物を出版するに至った経緯と、父周之介が玄武館を率いる最後の指導者であった旨が記されている。玄武館系統の千葉家は、その後も北辰一刀流の内情には一切関わることなく宗家号を去ったという。これを機に、千葉道場系統の千葉家が北辰一刀流の唯一の宗家となった。
3.大正時代(1912-1926)における北辰一刀流
千葉道場系統の第4代宗家である千葉束は、満州より東京に戻った後、1918年に逝去した。
束の息子であった千葉鶴太郎は、父から北辰一刀流を学んだが、北千住で鍼灸院を構えていた。千葉のお灸と呼ばれる程千葉家はお灸に非常に詳しく、周作によって執筆された鍼灸に関する書物を多数保存していた。鶴太郎の鍼灸院は繁盛していたため、北辰一刀流に捧げる時間は限られていたが、息子の千葉晃には北辰一刀流を教授した。
鍼灸院を継いだ晃は、西洋医学にも興味を持ち歯科医師となったが、鍼灸院の仕事が忙しくなったため歯科医院は開業せず門人を取る余裕もなかった。また、息子や孫たちに教えることもしなかった。従って2018年現在、千葉晃が北辰一刀流を学んだ千葉家の最後の人物となる。鶴太郎も晃も門人はいなかったが、家伝の流派を修得し、流派の宗家代理を務めながら千葉家として流派を守り続ける役割を担っていた。
古流武術では、家伝の流派の稽古をせずに宗家号を受け継ぐ場合が多く見られる。例えば、天真正伝香取神道流の宗家である飯篠家は、二世代前から稽古を行っていない。しかし、現宗家の飯篠快貞(第20代)は様々な師範家に巻物を伝授し、指導する許可を与えている。また、宗家としてある師範家に宗家号を移譲する権利も所有している。これは、宗家号が移譲された場合、元師範家だった新宗家によって流派が途切れずに伝承していくことを意味する。尚、宗家継承に一般的な規則は設定されておらず、その仕組みは各々の流派によってさまざまである。北辰一刀流では、当時の宗家号や流派を支配する権利の一切が千葉家の手にあった。
1914年に、小林誠次郎から免許皆伝を授けられた野田四郎が、北海道の小樽で道場を開いた。創始者である千葉周作を非常に尊敬していた野田は、玄武を奉る洞窟の近くに道場を建て、「小樽玄武館」という名を付ける許可を千葉家から得た。唯一の条件は、江戸玄武館でないことを、最初から明確にすることであった。宗家系統以外の指導者であるため、師範家として活動を開始した。新しく設立された小樽玄武館の開館式には、内藤高治と高野佐三郎という当時の有名な北辰一刀流の剣士が出席し、組太刀の演武を披露した。
4.昭和時代(1926-1989)における北辰一刀流
1930年代に、小林義勝と小西重治郎が小樽玄武館の門を叩き、野田四郎に師事した。内弟子として迎えられた二人は、6年間の厳しい修行の末、1940年に免許皆伝を授けられた。太平洋戦争が勃発すると、厳しい時代において流派の生存率を少しでも高めようと考えた野田四郎は、先輩の小林義勝を師範家2代、後輩の小西重治郎を師範家3代に任命した。尚、宗家(玄武館と千葉道場)の系統以外の北辰一刀流の指導者は師範家だが、師範家の元祖の名前に「派」をつけ、小野派一刀流兵法、中西派一刀流兵法、浅利派一刀流など、分派した流派名として呼ぶこともしばしばある。
太平洋戦争開戦後に戦闘機の操縦士になった小西重治郎は、終戦まで戦い続けた後東京に引っ越し、画家として活躍する傍ら、北辰一刀流を教授していた。大阪に移住した小林義勝は指導を続けることなく師範家を去り、現地の町道場で現代剣道の指導者となった。小西重治郎が1980年代に東京杉並区に再興した小樽玄武館は、今も現存する。
一方、千葉道場の系統では、千葉晃の息子、千葉弘が1934年に誕生した。鍼灸院を構える千住の地で育ち、家伝である北辰一刀流を学ぶことはなかった。しかし宗家代理の祖父や父から技を受け継がなくとも、精神は確かに受け継いでいたのである。そして流派を率いる宗家として実に相応しい千葉道場再興という「偉業」を成し遂げることになった。
5.平成の時代(1989-)における北辰一刀流
2001年に、大塚洋一郎という人物が小樽玄武館に入門し、小西重治郎に北辰一刀流を師事した。師範代に指名された洋一郎は自分の道場を構えることになり、辰明会道場と名を付けた。その後、2007年には重治郎より免許皆伝の巻物を伝授された。残念ながら、師匠の重治郎は翌年6月に逝去した。洋一郎は重治郎から免許皆伝を授けられた最後の弟子となった。現在は、重治郎の実子である小西真円が、師範家4代として小樽玄武館館長を引き継いでいる。
師匠の小西重治郎の死後、洋一郎は九段下にあった辰明会道場の初代師範家として、北辰一刀流を教授し続けていた。2010年にドイツ出身のレッシュ・マルクスが入門し、暫くすると洋一郎の内弟子となった。
時を同じくして、家伝である北辰一刀流を、明確な形で次の世代に引き継ごうと熱意に溢れていた第5代宗家千葉弘政胤は、2012年、北辰一刀流を指導する北辰一刀流免許皆伝に、北辰一刀流兵法と宗家号を移譲することに決定した。家伝の流派を相応しい師範に任せるため、当時活動していた辰明会道場を率いる大塚洋一郎、小樽玄武館を率いる小西真円、そして水戸東武館を構える小澤智の三系統をじっくりと観察した。江戸時代から昭和時代まで活動していた他系統は既に途絶え、この三系統だけが残っていたのである。
2013年7月1日、千葉弘は、北辰一刀流兵法と宗家号を大塚洋一郎に正式に移譲した。そして、第6代宗家を允可した大塚洋一郎と共に、東京で千葉道場を再興したのである。
翌年の2014年、内弟子であったレッシュ・マルクスは免許皆伝を授けられた。流派を受け継がせる子供がなかった洋一郎に道場養子として迎え入れられると、名を大塚龍之介政智に改めた。
2016年3月26日、東京中野サンプラザホテルでの襲名披露をもって、大塚龍之介が北辰一刀流兵法第7代宗家を襲名した。第5代宗家千葉弘政胤の協力のもと、北辰一刀流兵法が大塚洋一郎から大塚龍之介に伝承された。その際、北辰一刀流兵法の本部道場である千葉道場は、東京からドイツのミュンヘンに移転された。現在、第7代宗家大塚龍之介政智が日本と海外にて教授しながら、流派を率いている。
参考文献
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• 山本邦夫(1981)『埼玉武芸帳』さいたま出版会
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• 綿谷雪(1967)『図説・古武道史』青蛙選書
• 綿谷雪・山田忠史(1978)『武芸流派大事典』東京コピイ出版部
• 『絵図と写真に見る剣道文化史』(2014)全日本剣道連盟
資料提供
• 千葉家アーカイブ
• 大塚家アーカイブ
• 北辰一刀流口伝
• 創造広場「アクトランド」アーカイブ