他流試合

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他流試合という用語は、異なる流派の剣士同士の試合として使用されています。現在、他流試合は古流武術関連で最も誤解されやすい用語の一つです。現代の古流武術において、他流試合は無礼で悪いものとされ、道場破りと同じ意味合いに捉えられています。

江戸時代後期の他流試合稽古では、剣士たちの技術レベルを一族の代表が検分しました。

江戸時代後期の他流試合稽古では、剣士たちの技術レベルを一族の代表が検分しました。

 

I. 道場破り

道場破りは、どの時代にも様々な流派で大多数の剣士が行っていた通常の他流試合とは、歴史的にも全く異なるものです。道場破りとは、江戸時代(1603〜1868)に二つの流派間で復讐の際、相手方の道場を破壊することを言いました。これは、師範と上位伝位の弟子を負かすか殺害し、道場の顔とも言える存在の看板を強奪または破壊することでした。ここで重要なことは、道場破りは互いの流派に深刻な結果を及ぼす可能性があるため、ほとんど行われておらず、記録にもあまり多くは残っていないということです。二つの流派の血にまみれた復讐と戦を防ぐため、多くの場合、地方を統治する藩が道場破りに発展する前に仲裁に入りました。

道場破りを防ぐ策は、双方の流派が一人の剣士を選出し、一族を代表する検分役の前で対戦させることでした。ここでは、検分役の言葉がそのままルールとみなされました。これに反論する者は、いとも簡単に切腹の刑に処されました。このような試合は、一般的に真剣で死を賭けて行われました。
また、対戦者双方が木刀や竹刀で戦うこともありました。木刀または竹刀での対戦は、必ずしも対戦者の死で終わるとは限りません。検分役が出席する公式の試合で真剣を用いない場合、剣士が死亡することはほとんどありませんでした。
また時折、流派の完全な消滅を意味する、流派破りという言葉が使われました。多くの場合、流派破りと聞いた人は、敵対する流派の弟子全員が殺害または暗殺され、道場が破壊されることを想像します。しかし、そのようなことは小説や現代のテレビドラマを除いて、実際には決して起こりえないことでした。歴史的にみると流派破りは、他の流派を乗っ取ることでの、門下生獲得が目的でした。
流派が致命的な敗北に喫し、剣術としての不十分さが証明されると、ほとんどの門下生は最終的に流派を離れ、勝利した流派の門を叩いたり、別の流派を探したり、独自の流派を創始したりしました。これにより、敗北した流派は歴史の中で忘れ去られ、誰もがそれ以上関わりをもちたくない存在となりました。

 

II. 他流試合

江戸時代(1603〜1868)は、道場破りや流派破りに対し、他流試合が非常に一般的でした。上位伝位の剣士は、他流派の上位伝位の剣士たちと戦うことで技の向上を目指し、国中を旅する武者修行の許可を師から得ました。通常、他流試合の許可は、流派の免許皆伝を授けられた弟子へ自動的に与えられました。しかし、流派の代表に値するとみなされた場合、下位伝位の師範にも宗家より他流試合の許可が与えられることが度々ありました。江戸時代、武者修行中の剣士が戦った他流試合は他とは異なるものでした。ほとんどの他流試合は、竹刀または木刀を用いましたが、まれに真剣で戦うこともありました。試合の主な焦点は、他の流派の代表と戦い、己の技と精神を鍛錬することにありました。

直接打ち合う他流試合と稽古のため、新影流兵法の開祖である上泉信綱によって開発された袋竹刀大小。 木刀で戦った試合に比べ、袋竹刀は稽古中に重傷を負うリスクを減らせるので、多くの流派が瞬く間に袋竹刀を試合や稽古に採用しました。

直接打ち合う他流試合と稽古のため、新影流兵法の開祖である上泉信綱によって開発された袋竹刀大小。
木刀で戦った試合に比べ、袋竹刀は稽古中に重傷を負うリスクを減らせるので、多くの流派が瞬く間に袋竹刀を試合や稽古に採用しました。

武者修行中の剣士は、弟子や師範と戦うためいくつかの道場を訪れました。しかし、これは現在よく言われるような失礼や無礼に値するものではありませんでした。剣士が道場の門を叩く際は丁寧に自己紹介し、己の流派と伝位を伝え、そして挑戦された流派の宗家または館長がその挑戦を受け入れるか否かを決定しました。挑戦が受け入れられれば、修行者は対戦相手となる何名かの師範と弟子に紹介されました。試合は主に、四つの均等に分割された強度のある竹片で作られた四つ割り竹刀で行われました。時に、多くの細かい竹片に分割され革で覆われた竹刀、いわゆる袋竹刀も用いられました。こうした試合は、防具の有り無しに関係なく行われました。試合で使われる防具の有無、竹刀もしくは木刀の決定は、挑戦された流派に委ねられました。時には、防具の一部だけが使われることもありました。例えば、両剣士にとって試合の危険性を高めるため、面を外して戦うことがありました。試合中、修行者は他流派の宗家や館長によって選ばれたすべての剣士と戦いました。ほとんどの宗家や館長が、他流派からの挑戦を、弟子のための稽古の一環として歓迎していたので、修行者が一回またはそれ以上負けたかどうかは関係ありませんでした。また、こうして力を見せつけることで、流派や道場の名を国中に広めることができました。

一刀流兵法の中西忠兵衛によって開発された四つ割り竹刀大小。四つ割り竹刀は、袋竹刀と木刀の両方の特徴を併せ持っています。竹片は袋竹刀では十本ほどですが、四つ割り竹刀では四本を合わせたものです。革で覆われていないため木刀ほど硬くはありませんが、袋竹刀より撓まず、より頑丈です。北辰一刀流は、伝統的にこの竹刀を試合稽古や他流試合に採用しています。現代剣道も、四つ割り竹刀を採用しています。

一刀流兵法の中西忠兵衛によって開発された四つ割り竹刀大小。四つ割り竹刀は、袋竹刀と木刀の両方の特徴を併せ持っています。竹片は袋竹刀では十本ほどですが、四つ割り竹刀では四本を合わせたものです。革で覆われていないため木刀ほど硬くはありませんが、袋竹刀より撓まず、より頑丈です。北辰一刀流は、伝統的にこの竹刀を試合稽古や他流試合に採用しています。現代剣道も、四つ割り竹刀を採用しています。

しかし、有名な流派の道場の門前には毎日多くの挑戦者が現れたため、修行者を受け入れることは非常に困難でした。例えば江戸時代、北辰一刀流の千葉道場には、毎日10人〜50人の剣士が他流試合を申し込みにやってきました。日々の稽古や弟子への指導時間を確保するため、これらすべての修行者を受け入れることは不可能でした。修行者が有名な流派の上位伝位であることや、戦いの名声の有無によって、受け入れられる機会が増えました。他流試合では、有名な流派の上位伝位にある修行者は、あまり知られていない流派の代表より、優先的に受け入れられました。そのため、修行者は受け入れられるまで数日間頻繁に申し込まなければならないことが度々起こりました。

この頃、神様や天狗より秘密の技と教えを教授されたと言う似非剣士は、日本全土でよく見られました。田舎には、こうした疑わしい方法で学んだと主張する流派の剣士たちがより多く存在しました。こうした不気味な流派は、江戸や大阪のような大都市で、国の最強の剣士が集まるいわゆる町道場での他流試合では、生き残ることが出来ませんでした。

江戸で道場を経営するのはとても難しいことでした。毎日、他流派からの挑戦者が道場の門前に集まったので、流派があまりにも多くの試合に負けたり、試合を拒否したりすると、それは弱く使い物にならない剣術と見なされ、弟子は最終的に流派を離れていきました。こうしたことで、道場は財政的に破綻し、閉鎖されていきました。

このため、多くの流派は江戸または大阪の郊外で道場を開くことが精いっぱいでした。しかし、それでも非常に優れたことでした。例えば幕末(1853〜1868)には、千葉道場(北辰一刀流)、練兵館(神道無念流)、士学館(鏡新明智流)のいわゆる江戸三大道場で受け入れを拒否されたり敗北した修行者は、江戸周辺での他流試合のため、より弱い他の流派の道場の門を叩きました。

江戸時代末期に流派の大多数が他流試合と試合稽古のために使っていた伝統的な防具。現代剣道の防具は古流武術の防具と見た目は同じですが、使用目的は全く違います。現代剣道では、防具のある特定の部位を目標となりますが、古流武術では、内部の流血や致命的な怪我を防ぐための防具で覆われていない場所(足、腕、背中など)も目標となっています。

江戸時代末期に流派の大多数が他流試合と試合稽古のために使っていた伝統的な防具。現代剣道の防具は古流武術の防具と見た目は同じですが、使用目的は全く違います。現代剣道では、防具のある特定の部位を目標となりますが、古流武術では、内部の流血や致命的な怪我を防ぐための防具で覆われていない場所(足、腕、背中など)も目標となっています。

江戸時代に、戦いの名声を持たず、強く有名な剣士を輩出できなかった流派は、花法または道場剣法と呼ばれました。花法剣法は、流派や剣士が他流試合を拒否したり、従わなかったり、頻繁に倒されることで、弱いと見なされた流派を表しました。これらの流派は道場剣法とも呼ばれました。道場剣法は、宗家や師範が型稽古を介して理論的にしか剣術に従事せず、実際に教授している技の有効性が示されていない閉鎖的な道場の流派を表します。戦国時代(1467~1603)にも力を発揮した古流はたくさんありましたが、江戸時代(1603~1868)には技術的にさらなる進化を遂げた流派が多く台頭しました。

技の有効性を証明することなく過去の栄光に頼っていた流派には、花法や道場剣法といったレッテルが貼られました。流派が一度強かったからといって、必ずしもそれが世代を通してそのようにとどまるわけではありません。結局のところ、古流とは武士の軍教育であり、他流派との戦いで有効であることが最も重要でした。

 

III. 流派の宗家または支部道場館長による他流試合

流派の宗家または支部道場館長へ試合を直接申し込むことは、非常に困難なものでした。もし、修行者がそのような立場にある人へ試合を直接挑んだ場合、それは一般的に無礼であると見なされ、挑戦者の死をもって試合終了となることが容易にありました。すでに説明したように、他流試合が行われるのは非常に一般的なことでした。しかし、それは流派または道場への直接的な攻撃としてではなく、他流試合稽古の要素を多く含んでいました。流派または道場のトップへの挑戦は、流派および道場の評判を賭けたものとなるため、非常に深刻に捉えられました。
こうした挑戦を申し込む場合、修行者はまず何名かの上位伝位の弟子と対戦する必要がありました。全員を倒すことができた場合に限り、挑戦を申し込んだ相手との対戦が許されました。また、ほとんどの道場は、そうした修行者を生きたまま帰さない方針をとっていました。その為、竹刀を用いた試合でも、組打に入り、挑戦者の喉を潰すか、または首の骨を折ることが非常に一般的でした。すべては流派の評判を守るために行われました。現在でも流派にとって評判は最も重要なものです。
時に挑戦者は、すべての弟子を倒さなくとも、流派または支部道場のトップと対戦できることがありました。こうした対戦は多くの場合、新しい弟子の獲得のために行われましたが、挑戦者が負けたり、相手の高度な技術に感銘を受けた場合、挑戦者が勝利した流派の技術的優位性を認め、公式にまたは一時的に門下生として入門することもありました。

江戸時代に流派の宗家または流派の支部道場館長と直接対戦することが認められたのは、流派で同等の地位と技術レベルをもち、高い名声を誇る剣士のみでした。流派にて同等の技術レベルと高い名声をもっていれば、対戦が十分認められる場合もありました。また、一般的には、ほとんどの剣士が試合での稼ぎを目的に戦いました。名声のない剣士にとって、流派または道場のトップから他流試合に応じてもらうことは不可能でした。これは、比較的無名な流派の上位伝位の剣士も同じでした。
有名な剣士または有名な流派を代表する上位伝位の剣士を倒し名声を得ることや、少なくとも挑戦者に勝利し弟子を獲得することができない限り、通常は上位伝位の弟子が流派の名声を守るのに十分だったため、宗家や館長が個人的に戦うことは無用でした。

 

IV. 現在の他流試合

第二次世界大戦後、アメリカの占領下におかれた日本で、多くの古流は大きな変化を遂げました。1940年代までに存在していた古流は、その90%以上が他流試合を行っていましたが、戦後大幅に変化しました。アメリカに敗戦し占領下におかれた日本では、あらゆる武道の練習と訓練が禁止されました。1950年代に禁止令が解かれた後も、この平和主義的な考え方が、現代武道だけでなく、多くの古流武術流派の中に根付いていきました。他流試合稽古や撃剣で知られていた宗家や師範の多くは、古い伝統で剣術の稽古を行う戦争屋とみなされるのを恐れました。第二次世界大戦後、現代剣道や居合道、柔道、杖道などは、文化的なスポーツ以上のものではなく、また決して軍事訓練ではないと公然と宣言しています。多くの古流の指導者は、西洋化した部分と、この抑圧された日本社会に溶け込む考え方に従いました。こうして、多くの古流は孤立し、他流派との戦いや他流試合を控えるようになりました。多くの流派で、試合稽古は失われ、現在は型稽古のみに集中しています。こうして、「戦わない」または「非競争的」であるということは、古流武術の中で広く認識されました。これは、過去の様々な古流武術流派で起こった変化を明確に反映しています。

江戸時代末期に現存していた全流派の90%以上が、撃剣試合稽古を行っていました。

江戸時代末期に現存していた全流派の90%以上が、撃剣試合稽古を行っていました。

現在では、江戸時代と全く同じように稽古し、教えや伝統を守る正式な古流は、少数を残すのみです。多くの一度有名になった古流の古い系統はまだ存在していますが、第二次世界大戦後の西洋化や平和的思想に大きく影響されました。これらの流派は、死んだ貝の殻に住むヤドカリに例えることができます。系譜は途切れていないため、見た目は古流と言えるかもしれません。しかし、試合稽古を断念した流派や、他流試合にもう参加しない流派は、古流の本質である戦うことを失った流派で、中身は現代流派とまるで同じです。したがって、古流武術の神髄である「戦いの精神」を失った流派は、本来の古流武術とは意を異とします。真実のない空っぽの古流の殻、いわばネオ古流とも言えるでしょう。

現存する三つの正式な系譜のうち、北辰一刀流兵法七代目宗家 大塚龍之介の指導する本系(千葉道場)だけは、まだ撃剣を行っていると共に、他流試合にも積極的に参加し、他流試合願いも随時受け入れています。二つの独立した北辰一刀流の師範家派、小沢派北辰一刀流(東武館)と野田派北辰一刀流(小樽玄武館)は現在いずれもいわゆるネオ古流となり、伝統的な流派の撃剣試合稽古は行っておらず、他流試合にも参加していません。

下記は、現在も試合稽古を行い、他流試合を受け付けている古流の一部です。天然理心流(武術保存会派)、様々な直心影流と新影流の数派、他。正当な系統を持つ流派の大半は、理論的にのみ古流を教授するいわゆるネオ古流となりました。

他流派の宗家へ、大塚龍之介(北辰一刀流兵法の第七代目宗家)より送られた試合申込状。この戦いは後に、他流派の宗家が諦め「この試合に勝つことは出来ないので試合を受けることはできません」と述べたため、鞘の内の勝ち(刀を抜かずして勝ちを収めること)に勝利しました。日付と場所また挑戦者名と流派名は、宗家と流派の尊厳を守るため伏せて掲載しています。

他流派の宗家へ、大塚龍之介(北辰一刀流兵法の第七代目宗家)より送られた試合申込状。この戦いは後に、他流派の宗家が諦め「この試合に勝つことは出来ないので試合を受けることはできません」と述べたため、鞘の内の勝ち(刀を抜かずして勝ちを収めること)に勝利しました。日付と場所また挑戦者名と流派名は、宗家と流派の尊厳を守るため伏せて掲載しています。

 

V. 北辰一刀流兵法との他流試合

一、他流試合稽古

古流または現代剣道・居合道を学ぶすべての剣士は、北辰一刀流兵法七代目宗家大塚龍之介のもと、その腕前を北辰一刀流の様々な伝位の剣士と防具・竹刀を用いた撃剣他流試合稽古で試すことが出来ます。これは検分役の前で行う公式な他流試合ではなく、非公式の「他流試合稽古」とみなされるため、挑戦者の流派または師の書面による署名入りの許可は不要です。下記は他流試合稽古に参加するための要件です。

  • 古流または現代剣道・居合道の経験者
  • 武術経験についての詳細をeメールでお送りください
  • 他流試合稽古で使用する防具と竹刀は、北辰一刀流より貸し出しも可能です
  • 挑戦者の流派または師の許可は不要です

二、公式他流試合

北辰一刀流兵法の公式「他流試合」は、正統な古流を学ぶ者からの挑戦のみ受け入れています。即ち、挑戦者の流派は「武芸流派大事典」に掲載されている必要があります。また挑戦者は、宗家または師範家から流派を代表する権限を与えられていなければなりません。尚、北辰一刀流では挑戦者が礼節を重んじる限り、他流試合を挑発的な行為として捉えることはありません。北辰一刀流兵法は公式他流試合を受け入れると共に、すべての剣士の挑戦を楽しみにしています。

北辰一刀流の公式他流試合は、竹刀または木刀を用い、防具を装着または非装着で行います。各試合で使用する竹刀または木刀の選択、防具装着の有無については宗家が決定します。勿論、要望があれば受け付けます。公式他流試合には、常に検分役が同席します。下記は公式他流試合の要件です。

  • 古流経験者
  • 宗家または師範家の書面による署名入りの許可
  • 試合申込状の郵送または、eメール送付
  • 公式他流試合で使用する防具、竹刀、木刀は、北辰一刀流より貸し出しも可能です

三、北辰一刀流兵法現宗家による他流試合

正統な流派の宗家または上位伝位の師範は、北辰一刀流兵法七代目宗家大塚龍之介との他流試合を正式に申し込むことが出来ます。これまで長きにわたり大塚龍之介宗家は、十二の異なる流派の宗家、師範、門下生に一度も敗れることなく他流試合を行いました。下記は七代目宗家との他流試合の要件です。

  • 正統な古流の宗家、師範家または上位伝位の師範
  • 宗家の書面による署名入りの許可(師範のみ)
  • 試合申込状の郵送または、eメール送付
  • 公式他流試合で使用する防具、竹刀、木刀は、北辰一刀流より貸し出しも可能です

上記の内容に関する要望は、フルネーム(パスポートに掲載の氏名)、古流または現代剣道・居合道経験の詳細、自己紹介文、要望内容を日本語または英語で記載の上、info@hokushinittoryu.comまでお送りください。

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参考文献

  • 渡辺一郎(1967)『幕末関東剣術英名録の研究』 渡辺書店
  • 真田範之介(1860)『武術英名録』
  • 榎本鐘司編(1991)『撃剣試合覚帳』伊予史談会文庫蔵
  • 牟田高惇(1853)『諸国廻歴日録』
  • 藤島一虎著(1963)『幕末剣客物語』東京中日新聞出版局
  • 友田満(2013)『剣豪流派と日本刀~幕末三大江戸道場と志士たち』2013年3月10日号、日本文芸社
  • 笠倉伸夫(2015)『剣日本の流派』2015年9月10日号、笠倉出版社

資料提供

  • 大塚家アーカイブ
  • 北辰一刀流口伝